大阪高等裁判所 昭和42年(ネ)236号 判決 1974年3月19日
主文
原判決を次のとおり変更する。
控訴人の第一次請求を棄却する。
原判決別紙図面において本件堤防と記載した赤線内の土地―「編者注」太線により囲んだ部分をもつて示す。以下同じ―(滋賀県高島郡安曇川町大字下古賀地内)および右土地上に築造されている堤防が控訴人の所有であることを確認する。
被控訴人らは各自控訴人に対し昭和三四年一一月一日から前項の堤防の買受けまたは代替堤防の築造に至るまで一年につき金一五〇万円の割合による金員を支払え。
控訴人のその余の第二次請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審を通じてこれを三分し、その一を控訴人の、その余を被控訴人らの各負担とする。
この判決の第四項のうち昭和四八年一一月五日以前の支払義務の部分にかぎり、仮りにこれを執行することができる。
ただし、そのうち金五〇〇万円を超える部分については、
被控訴人らにおいて各金三〇〇万円の担保を供したときは、それぞれその執行を免れることができる。
事実
第一、当事者の求めた裁判
一、控訴人
1. 原判決を取り消す。
2. (第一次請求)
(一) 控訴人に対し、被控訴人らは主文第三項記載の土地および堤防(以下、それぞれ本件土地および本件堤防という)を明け渡し、かつ、被控訴人滋賀県は昭和三七年二月四日から、被控訴人国は同年五月一二日から、右明渡ずみに至るまで、各自一年につき金一五〇万円の割合による金員を支払え。
(二) 控訴人に対し、被控訴人滋賀県は金三四〇万円およびこれに対する昭和三七年二月四日以降、被控訴人国は金一四〇万円およびこれに対する同年五月一二日以降、各支払ずみまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。
3. (第二次請求)
(一) 主文第三項同旨
(二) 被控訴人らは各自控訴人に対し主文第三項記載の金員、ならびに、金四〇万円およびこれに対する昭和三七年五月一二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
4. 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
との判決ならびに金員支払部分につき仮執行の宣言。
二、被控訴人ら
本件控訴および当審における新請求をいずれも棄却する。
当審における訴訟費用は控訴人の負担とする。
との判決および担保を条件とする仮執行免脱の宣言。
第二、当事者双方の主張および証拠関係は、左のとおり付加、訂正するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
一、控訴人の主張
1.(一) 本件土地は滋賀県高島郡安曇川町大字下古賀字的谷崎四八番、四七番、四六番および三八番(後記の分筆後の新三八番)の各土地の一部に該当する。
(二) 右各地番の土地は、いずれも、明治二五年当時控訴人先々代赤塚又左衛門の所有に属し、控訴人先代を経て、控訴人が家督相続によりその所有権を取得したものである。
(1) 四七番、四八番の各土地は、明治二二年以前から又左衛門の所有であつた。
(2) 四六番の土地は、時期は明らかでないが、北村某から交換により又左衛門がその所有権を取得した。ただし、登記簿上は現在も他人名義である。
(3) 三八番については、明治二五年頃、庄堺組所有の三八番三町八反二畝四歩(旧三八番)のうちから、その一部の一町七反八畝四歩を又左衛門が買い受け、明治二九年四月二二日、右買受部分を三八番一町七反八畝四歩(新三八番)、庄堺組残留地を三八番の一、二町四畝として分筆のうえ、前者につき所有権移転登記を経由した。
(三) 本件堤防は、明治二五年頃から、又左衛門が、北側にある自己所有農地を水害から護るため、右(一)の各地番の土地の南部を東西に連ねた部分(甲第二四号証の二の図面ワラナオワの範囲)に築造したものである。
2.(一) 新三八番は、その後数次の分筆、合筆等を経たうえ、その大部分について自作農創設特別措置法に基づく買収、売渡がなされた結果、現在登記簿上控訴人の所有として残されているのは、三八番田荒地四反三畝一歩および三八番の七田一反五畝二一歩のみとなつている。また、四八番は、昭和二三年に同番の一ないし五に分筆されたうえ、そのうち四筆につき同様に買収、売渡がなされた結果、現在同番の四田七畝のみが控訴人所有名義に残つている。そのほか、四六番は依然他人名義のままであり、四七番は昭和三五年に売買により第三者所有名義になつている。しかし、原判決事実摘示中請求原因一(2)記載の事情により登記簿上の地番と現状との不一致が生じている部分もあるが、本件土地が買収、売渡の対象とされ、あるいは控訴人においてこれを売却したという事実はなく、現在の登記簿上の地番および所有名義いかんにかかわらず、本件土地は現に控訴人の所有に属する。
(二) 本件土地が1(一)記載の地番の土地の各一部に属し、前記図面のワラナオワの範囲にあたることは、左の点から明らかである。
(1) 明治九年下古賀村作成の同村総全図(甲第二二号証の一ないし三)によれば、西から東へ順次四八、四七、四六番と並び、旧三八番は、四六番、地番不詳地および三九番の南に位置し、南側において安曇川に、東側において井の口村(現新旭町)郷界に、西側において字外川原八五九番の一〇にそれぞれ接している。
(2) 旧三八番は、その北側を新三八番とし、南側を三八番の一として分筆され(前記1(二)(3))、その境に沿つて本件堤防が造られた。
(3) 本件堤防の西方を北から南へ流れる的谷崎川は、西から東へ流れる「小谷の旧排水路」および「昭和一九年に造られた小谷の新排水路」と、本件堤防の西端の南において合流し、東に向きを変え、本件堤防の南側を東流している。右の合流点は、字下川原と字的谷崎との境界であるから、本件堤防の西端は右境界の北に存在するわけである。
(4) 右(2)、(3)の各事実を(1)の地理関係に対照し、さらに構築物は自己所有地上に造るのが通常であるという経験則および本件堤防が東西にほぼ直線状である事実に鑑みると、本件堤防の西端は四八番地内、東端は新三八番地内にあつて、右両地番およびその中間の四七番、四六番の各土地を連ねるものとみるべきである。
(5) この点につき、前記下古賀村総全図は信頼性の高いものである。すなわち、字的谷崎中で明治三一年当時荒地免租となつていた土地は、三番、三六ないし三九番、四〇番の一、二、四五ないし四八番の各土地であるが、これらのうち最も早く明治一三年に開墾されたと推認される三番を除いて、その余の土地の外縁を結ぶと、右総全図上にみられる荒地の外縁と合致するし、また、右総全図上の地形は、的谷崎川が元来は直流して安曇川本流と丁字型に合流していた事実とも合致する。この点に鑑み、右総全図は、公図の原型をなし、土地台帳もこれによつていたとみるべきである。
(三) 被控訴人らの援用する字限図(乙第一号証の一ないし八)には、以下の欠点がある。
(1) 新三八番は、三八番の一の北側に位置することが明らかであるのに、乙第一号証の三では、両者の位置が逆になつている。
(2) 新三八番は一町七反八畝四歩、三八番の一は二町四畝として分筆されたにかかわらず、同号証の三では、前者が後者の約四倍の広さのように記載されている。
(3) 県道中野新旭線は、現地では直線状であるのに、乙第一号証の一ないし八を書き写した甲第九号証によるとき、屈折し、途絶える等道路の態をなさない。個別にみても、乙第一号証の三に記載されている県道は屈折しているし、同号証の四では、県道所在地であることの明らかな的谷崎四九番の四、五一番の三、五四番の三の各土地について、県道としての表示がないし、それ自体屈折して記載されている。
(4) 被控訴人らも、右字限図が正確なものでないことを自認している。
(5) 字的谷崎三六番、三七番(第三者所有)の位置形状について、乙第一号証の三の記載は現状と一致していない。
(6) 原審認定のとおり、三八番の七が同番の七ないし九に分筆され、さらに同番の七から同番の一〇が分筆されて、同番の九および一〇が県道敷となつている経過からみれば、同番の七は、県道に隣接して存在していなければならないのにかかわらず、乙第一号証の三には、県道とまつたく無関係な位置に記載されている。
(7) 新三八番の南に三八番の一が存在する以上、その面積との関係から、字外川原八五九番の一〇が右字限図表示の位置に存在する余地はない。
(四) 乙第一号証の八の図面の黄着色部分が官有堤塘を示し本件堤防敷にあたるとする被控訴人らの主張も、次の理由により失当であり、これが何を示すものかは不明というほかはない。
(1) 本件堤防は、その西端が的谷崎川と小谷の新排水路等との合流点付近で、的谷崎川より西には存在しないにかかわらず、右図面の黄着色部分は、新儀村(現新旭町)と字的谷崎との郷界から右合流点付近を経て字下川原地内に至つている。
(2) 字下川原には、下川原堤防以外の官有堤防は存在しないのに、右図面には、黄着色部分のほかに、無色の官有堤塘の表示がある。
(3) 旧三八番の土地中には官有地は存在しなかつた。中に官有地が介在する土地は二筆以上に分割されていなければならないが、控訴人が新三八番を買い受け分筆するまでは、旧三八番は一筆の土地であつた。被控訴人らが、川や道路で分断されながら一筆の土地のままで存在することがあるとして例示する場所は、一尺程度の畦道や同程度の灌漑用水路で、かつ、私有地であるものにすぎない。
(4) 右図面は、字下川原の字限図であつて、字的谷崎のそれではない。
(5) 乙第一九号証は、後記(五)(8)のとおり、本件堤防の記載に関しては信用しえないものであつて、被控訴人らの右主張を裏付けうるものではない。
(五) 本件堤防の築造者が控訴人先々代であることは、次の諸事実を鑑みて明白である。
(1) 本件堤防は、下古賀部落から遠く離れて、中間に約三〇〇メートルの無堤防地域を置き、明治二五年頃新三八番の開墾と同時にその築造が開始され、地形的にみて、的谷崎地内の田地を保護する使命を果たしている事実に照らすとき、新三八番等の開墾地を水害から護るために造られたものと考えられる。
(2) 本件堤防築造のため、控訴人先々代が巨費を投じている。
(3) 近隣のすべての人が、控訴人先々代において本件堤防を築造したものである事実を認めている。
(4) その名称も、赤塚堤防、赤又堤防、酒屋堤防等、控訴人先々代の氏名または職業に由来する名で俗称されている。
(5) 下川原堤防、井の口堤防に比し、その規模に格段の差がある。
(6) 官有堤防の場合は、竹はもつぱら堤防の保護強化の目的で法面にのみ植栽され、天場は道路等に利用されるのであるが、本件堤防では、竹が堤防の天場にまで全面にわたつて植栽されており、これは、右目的のほかに蛇籠作成の目的もあつたことに由来する。
(7) 本件堤防は、被控訴人ら主張のような霞堤ではない。霞堤には遊水地の存在が不可欠であるところ本件堤防について、地形上遊水地に該当すべきものは字外川原八五九番の一〇であるが、この土地は、明治一三年に開墾されて、本件堤防築造時には畑となつており、その後水害によりいつたん荒地と化したのち再度田地として開墾された土地であつて、これを遊水地とみなすことはできず、したがつて、本件堤防には遊水地は存在しない。
(8) 控訴人先々代の築堤したのが内堤防であるとの被控訴人らの主張は、明らかに誤りである。内堤防の南に控訴人先々代の所有の田地が存在する以上、内堤防の位置に巨費を投じて築堤することは、常識的に考えられない。また、被控訴人らの援用する乙第一九、二〇号証についても、第一九号証の図面上郷界付近まで延びていた現在の下川原堤防に相当する堤防が、第二〇号証の図面では的谷崎川河口付近まで、大きく後退し、本件堤防相当部分は無堤防地となつていること、他方、後者の図面では、内堤防が新たに記載されているが、右図面作成時の明治四五年には、内堤防は本件堤防築造のためとりくずされていること、の二点から、本件堤防および内堤防の記載に関するかぎり、信用しえないものである。
(六) 乙第一八号証の三について。
(1) 右書証の申出は、時機に後れて提出された攻撃防禦方法であるから、却下されるべきである。
(2) 被控訴人らは、同号証の作成後乙第二号証が作成されたと主張するが、乙第二号証は明治三三年に作成されたものであり、乙第一八号証の三は、明治三四年頃に作成され、大正二年頃調整されたものである。したがつて、内堤防が前者に記載されながら、後者に記載されていないのは、内堤防がなくなつたこと、すなわち、内堤防を本件堤防築造の材料として取りくずして使用したことを意味する。
(3) 乙第二号証と同様、乙第一八号証の三も、河川改修、治水のため作成された図面であるから、現実に堤防が存在する以上、その所有者の公私にかかわらず、これを記載するのが当然であり、本件堤防が右図面に記載されているが故に、控訴人の所有でないものとすることはできない。
3.(一) 被控訴人らは、原判決摘示の請求原因二のとおり、みずから堤防を築造すべき河川法上の義務の履行を怠り、事実上本件堤防を利用していたところ、昭和三四年、本件堤防の東端部分約三〇メートルが決潰するや、本件堤防の必要性と災害復旧の緊急性に藉口し、共同して、控訴人の承諾なく、本件堤防上に植栽されていた控訴人所有の竹木約二万一、〇〇〇本をことごとく伐採したうえ、右決潰部分を補修築造し、同年一一月以降、本件堤防全部を占有するに至つた。
(二) 被控訴人らが、右河川法上の義務に基づいて堤防を設置するとすれば、下川原堤防を〓庭湯付近まで延長するかまたは本件堤防を買収しなければならない。右延長工事に要する工事費は昭和三五年頃において概算二、五〇〇万円であり、また、堤防の維持費として毎年一五〇万円の支出を要するところ、被控訴人らは、本件堤防を利用することによつて、控訴人の負担において右費用の支出を免れ、同額の利得をしている。他方、控訴人が被控訴人らの本件堤防利用により被る損失および不法占有により被る賃料相当損害金の額は、右築堤費に対する年六パーセントの割合にあたる年額一五〇万円とするのが相当である。右堤防利用および占有は、被控訴人らの共同行為であるから、控訴人は、被控訴人らに対し、不当利得返還請求として、また、前記不法占有開始の昭和三四年一一月以降については不法行為による損害賠償請求としても、年額一五〇万円の支払を求めることができる。
(三) 被控訴人らの伐採した本件堤防上の竹は、本件堤防築造当時から控訴人先々代が植栽していたものであり、生育した竹藪では一反(約一〇アール)あたり約四、〇〇〇本の竹が生えるものであるから、本件堤防約六反(約六〇アール)上に生えていた竹は二万本以上であり、昭和三七年当時竹の価格は一本二〇円であつた。したがつて、被控訴人らの不法伐採により控訴人は四〇万円の損害を被つた。
(四) (第一次請求)
よつて、控訴人は被控訴人らに対し、(1)本件土地・堤防の所有権に基づきその明渡を求め、かつ、(2)本件訴状送達の日の翌日(被控訴人滋賀県につき昭和三七年二月四日、被控訴人国につき同年五月一二日)から右明渡ずみまで各自年額一五〇万円の割合による賃料相当損害金の支払、(3)それ以前の期間についての前記(二)の賃料相当額による不当利得返還および損害賠償の各請求の内金として、被控訴人滋賀県に対し金三〇〇万円、被控訴人国に対して金一〇〇万円の各支払、(4)各自前記(三)の損害賠償四〇万円の支払、(5)右(3)および(4)の各金員に対する前記訴状送達の日の翌日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める(原審における請求をこのとおりあらためる)。
(五) (第二次請求―当審において追加)
本件土地・堤防の明渡請求が権利濫用として認められない場合には、(1)その所有権の確認を求める。また、本件堤防の堤外に他の堤防がなく、事実上本件堤防が字的谷崎の耕地の保護という公共の目的に利用されている事情に鑑みるとき、控訴人は、たとえ明渡を命ずる勝訴判決を得ても、本件堤防を意のままに利用しまたはこれを取り払つてその敷地を果樹園等に利用することはできず、したがつて、明渡判決も確認判決も控訴人にもたらす利益は同一であるが、さりとて、控訴人は、本件堤防を被控訴人らに賃貸する意思はないから、控訴人の勝訴後も、被控訴人らが前記河川法上の義務を履行するまで、すなわち、代替堤防を築造しまたは本件堤防を買上げるまでは、被控訴人らの本件堤防に対する不法占有またはその利用による不当利得が継続することになる。よつて、被控訴人らに対し、(2)不法占有開始の日の翌日の昭和三四年一一月一日から代替堤防の築造または本件堤防の買受に至るまで、一年につき金一五〇万円の割合による賃料相当損害金または不当利得返還、(3)前記竹の伐採による損害賠償四〇万円およびこれに対する昭和三七年五月一二日から支払ずみまで年五分の割合による金員の各自支払を求める。
二、被控訴人らの主張
1.(一) 控訴人の主張一1の事実のうち、四七番、四八番の土地がもと控訴人先々代の所有であつたこと、旧三八番が主張のように新三八番と三八番の一とに分筆され、前者が控訴人先々代の所有となつたことは認めるが、その余は否認する。
(二) 新三八番がさらに分筆されたのちの三八番および同番の七の土地が堤塘敷となつていると考えられないことは、原判決事実欄第二、二、(1)摘示のとおりである。また、四八番がのちに分筆された土地のうち、現在控訴人所有名義に残存しているのは、四八番の四のみであるが、これは、本件堤防の北側にある四八番の一ないし三のさらに北側に所在し、訴外殷徳基が耕作中の土地であつて、本件堤防とは関係がない。
(三) 本件堤防敷は、字外川原地内に存在し、字限図中の外川原第四号図面(乙第一号証の八)において無番の黄着色(その意味は原判決事実欄第二、二(2)摘示のとおり)で示された部分である。
2. 甲第二二号証と乙第一号証の一ないし八との信用性の比較に関する控訴人の前記一、2の(二)ないし(四)の主張は、次の理由により、失当である。
(1) 甲第二二号証の図面における荒地外縁は、字的谷崎一番、二番の土地については実際と合致しない。また、川の流れは自然にまたは人工で変化するものであり、右図面の作成された明治九年頃、的谷崎川が安曇川と丁字型に合流していたという確証はない。むしろ、より以前から、的谷崎川は小谷の川と合流したうえ、東へ、新三八番の土地と三八番の一の土地との間を貫流して、〓庭湯(その位置は二〇〇年来変わつていない)に注いでいたものと窺われる。
(2) 仮りに右図面が正しいとしても、これは、水路、道路、田地、山の区別を表示するのみで、堤防を表示せず、したがつて、これには、一筆の土地が堤防によつて区切られている場合の飛地関係は表示されていない。しかし、新三八番と三八番の一との間には土手状のものがあつたという証言もあり、水路、里道または堤防(土手を含む)をはさんで一筆の土地が存在することは多々あることであるから、右図面に堤塘の表示がないからといつて、当時本件堤防が存在しなかつたとはいえない。
(3) 乙第一号証の一ないし八は、土地台帳制度の発足した明治二〇年頃、土地台帳付属図面として作成されたもので、下古賀村が当時すでに作成していた甲第二二号証を参考にし、なお現況に合わせて修正したものである。そして、甲第二二号証が全体図に中心を置いたものであるのに対し、乙第一号証の一ないし八は、地租徴収上の図面とする目的で作成され、個々の土地の状況、とくに有租・免租の区別を明らかにしているものであり、したがつて、この点に関しては、前者より正確である。
(4) 明治二六年の測量による国土地理院作成の今津村図面(乙第一九号証)によれば、当時、本件係争地付近の安曇川左岸に沿つて堤防(旧堤防)が存在し、郷界付近から西方へ長く延びていて、その形状が乙第一号証の八中の黄着色部分とほぼ一致する(なお、右今津村図面は、明治四三年に修正された(乙第二〇号証)が、両図面を対照してみると、堤防の一部付替が行なわれていることが推測され、修正図面上の新堤防が現在の下川原堤防に該当する。そして、修正図面には、新たに、的谷崎川の内側に東西に直行する小堤防が記載されているが、これは後述の内堤防とほぼ一致するものであり、その位置関係からして、本件堤防が右小堤防にあたることはありえないから、本件堤防は記載洩れになつているものとみるべきである)。
3.(一) 滋賀県土木部今津出張所作成の安曇川平面図(乙第一八号証の一ないし四、第二一号証の一ないし三、第二二号証の一、二)は、明治三五年頃安曇川の管理のため作成され、昭和五年頃まで利用されていた図面であるが、そのうち的谷崎付近図(乙第一八号証の三)には、本件堤防に該当する場所に堤防の存在が表示されており、その形状、位置および構造(西側は蛇籠を入れ、東側は盛土)等からして、右堤防が本件堤防を示すことは明らかである。したがつて、右図面およびその後作成された同性質の図面である乙第二号証によれば、当時から、本件堤防は、安曇川の管理・改修計画の中に織り込まれていたものであつて、私的堤防でないことが明らかである。
(二) 右乙第一八号証の一ないし四の図面は、その使用が廃止されたのち、滋賀県土木事務所安曇川出張所の倉庫に保管され、昭和四四年に同出張所が閉鎖されてその事務が今津土木事務所に引き継がれたのちも、右図面は、重要ではあるが、さしあたり必要でない書類として、そのまま同出張所の倉庫に残置されていた。このように、右図面が利用されなくなつてから長年月を経過していること、当時の職員が残存していなかつたこと、すでに閉鎖された旧出張所の倉庫に他の書類とともに未整理のまま保管されていたことなどにより、被控訴人において、その発見が遅れ、本件訴訟の当審係属後に再調査した結果始めてこれを発見したのである。
しかし、右図面は、すでに提出されている乙第二号証と同性質のもので、立証趣旨も同一であるから、とくに新たな証拠方法というべきものではない。また、仮りにその提出が新たな書証の申出にあたるとしても、右事情から、その提出が遅れたことにつき被控訴人らに故意または重大な過失があるとはいえないから、民訴法一三九条により却下されるべきものではない。
4.(一) 右乙第一八号証の三にも明らかなとおり、本件堤防は、下川原堤防と離れて、その内側に位置し、さらに本件堤防と離れて、その下流に〓庭湯口に接した堤防(通称井之口堤防)があり、その三個の堤防に囲まれた部分が遊水池をなしている。安曇川の水を〓庭湯へ導くため下川原堤防と井之口堤防とは、これを直結することができず、切断されているが、本件堤防は、その切断部分について、後方の沿岸土地を護るための霞堤として築造されたものである。
(二) 本件堤防が、井之口堤防と比較して、その規模、堅固さにおいてとくに見劣りするというほどではないし、多少劣るとしても、それは霞堤と本堤との差にすぎない。
(三) 明治末年頃、的谷崎川と安曇川の合流点付近には、本件堤防のほかに内堤防が存在していた。右内堤防は、本件堤防が強固になるにつれて消滅し、現在は畦畔状の跡を残すのみであるが、その内側は控訴人先々代所有の田地であつたのであり、真実同人が控訴人主張の頃に堤防を築いたとすれば、それは右内堤防であつたと推測される。
(四) 本件堤防が赤塚堤防等と俗称され、控訴人先代らがこれに手を加えたことは窺えるが、それは、同人らが堤防を補強したことを意味するにすぎない。また、本件堤防上に竹が植栽されているが、それも官有堤防には存在しえないというものではなく、現に、滋賀県保管の堤塘使用台帳によると、私人をして堤防上に竹を植えさせる例も珍らしくなく、控訴人先代も、明治三二年六月三日に許可を受けて、本件堤防と推測される官有堤防に竹の栽植をしているのである。
三、証拠関係(省略)
理由
一、被控訴人滋賀県の本案前の抗弁について
控訴人は、被控訴人滋賀県が本件堤防を事実上利用し、よつて本件堤防およびその敷地を占有していると主張して、同被控訴人に対しその明渡を求めるのであるから、右請求につき当然に同被控訴人に当事者適格がないものとすることはできず、原判決理由一項記載のように同被控訴人が旧河川法および現行河川法上河川の管理主体でないという事情は、本案における請求の当否につき、同被控訴人が本件堤防およびその敷地を占有せずその明渡義務を負わないとされる理由となるにすぎないものというべきである。また、金銭支払請求について同被控訴人の当事者適格を否定しえないことは、原判決理由一項記載のとおりである。さらに、同被控訴人は、少なくとも右各法律に基づく河川の管理費用の負担者として、堤防およびその敷地の所有権の帰属につき法律上の利害関係を有するものであるから、控訴人の予備的請求中確認の訴についても、同被控訴人に当事者適格がないとはいえない。
二、本件は明治中期に遡つて河川堤防の所有権が争われるという特殊な事件であり、直接これを証明すべき文書等は乏しく、地元の古老というべき人々の証言も必ずしも明確なものではないため、事実関係の把握にはきわめて困難なものがある。しかし、当事者双方の主張立証を比較検討して、そのいずれが、より採用に値するかの一点に目標を置くかぎりにおいては、以下のとおり判断するほかはないと考える。
三、関係土地の所有権の移転・分筆の経緯、土地の位置関係、占有状況等については、原判決理由二枚目裏一一行目から七枚目表一行目の「肯認し難い。)」までの記載(ただし、同三枚目裏五行目の「一ないし」の四字を削る)を引用し、なお次の認定を付加する。
(一)(1) 成立に争いのない甲第二九号証の五九、当審証人井上英保の証言、原審における控訴本人尋問の結果(第一回)によれば、字的谷崎四六番田七畝は、古くは土地台帳上北村仙次郎の所有名義に属し、大正一五年に北村仙吉名義に所有権保存登記され、その後転々第三者に所有権移転登記がされているが、控訴人先代は、明治年間に、他の土地との交換により、その所有権を取得していたことが認められる。
(2) 前掲甲第二号証の九、成立に争いのない甲二九号証の六〇によれば、控訴人先代の所有であつた原判決別紙第四目録(9)記載の土地(字的谷崎四七番)については、昭和三一年に控訴人が所有権保存登記を経由したうえ、同三五年一〇月一二日売買を原因として殷徳基に所有権移転登記をしていることが認められる。
(3) 前掲甲第二号証の一〇ないし一三、第七号証の四、第一一号証の一、成立に争いのない甲第二九号証の六一ないし六五によれば、字的谷崎四八番田五反七畝一六歩は、明治二二年に控訴人先代が所有権保存登記をしていたが、昭和二三年四月六日に四八番の一ないし五に分筆され、同年中に同番の一ないし三、五(原判決別紙第四目録(10)ないし(13)記載の土地)は自創法に基づき買収されて第三者に売り渡され、現在同番の四のみが控訴人の所有名義となつていることが認められる。
(二) 前掲乙第五号証の二、三、原審における検証の結果および弁論の全趣旨によれば、的谷崎四六、四七番は暫く措き、分筆前の四八番の土地は、本件堤防の西端付近において、その北側に接着して存在した土地であると認められる。
(三) 成立に争いのない甲第三〇号証の二、原審および当審における証人井上英保、控訴本人の各尋問の結果、検証の結果ならびに弁論の全趣旨によれば、もと控訴人先代の所有に属し控訴人から訴外赤塚庄蔵に譲渡された原判決別紙第三目録記載の土地(字外川原八五九番の一〇)は、本件堤防の南西側に接し下川原堤防との間に存在する土地であると認められる。
四、本件堤防が官営堤防であることを示す証拠として被控訴人らが最も重視するのは、乙第一号証の一ないし八、第二号証、第一八号証の三などである。しかし、これらの証拠およびこれを裏付けるべき資料を検討してみても、被控訴人らの主張を支持するのに十分なものがあるとはいいがたい。すなわち、
(一) 乙第一号証の一ないし八の記載中、同号証の三において三八番関係の土地の分筆状況を示す記載が誤つていることは、さきに引用した原判決認定のとおりであるが、それは別としても、被控訴人ら主張のように同号証の八記載の黄着色部分をもつて本件堤防の表示と解するときは、これが的谷崎川を越えて西方の字下川原地内に延びていることとなるし、さらに同地内には別に下川原堤防と推測される白地の官有堤塘の表示があるため、二本の堤防が平行して存在することとなるが、現実にそのような状況が存在していたことは窺われないこと(のみならず、右記載のとおりだとすると的谷崎川は堤防に遮られて安曇川に達せず消滅することとなる)、また、東部においては、旧三八番の土地より南に本件堤防が存在することとなるが、これは前記のとおり分筆後の三八番の一の土地が本件堤防の南側に存在するという事実(これは前掲各証拠からは疑問の余地がない)と相容れないことなどの点において、説明しがたい矛盾を生ずるものというべきである。したがつて、右書証に関する被控訴人らの主張は採用することができない。
(二) 当審証人小谷昭一の証言によれば、乙第一八号証の三の提出が時機に後れたことにつき被控訴人らには故意または重大な過失があつたとは認められないから、その却下を求める控訴人の申立は採用することができない。そして、同証人および原審証人中川源次郎の各証言によれば、右乙第一八号証の三および第二号証は、明治三三、四年頃に滋賀県が安曇川の管理の目的をもつて作成した図面であると窺われるところ、右各図面には本件堤防と推定される堤防の表示がある。しかし、右各図面は、作成の目的が右のとおりであつて、河川の現況を現わしたにすぎないものと解する余地があるから、これに記載された堤防およびその敷地のすべてが国または滋賀県の所有または占有に属するものと認めるには足りないものというべきであり、そのほかに、昭和二八年頃より以前において国または滋賀県が本件堤防につき補修その他の事実上の管理行為をしていた事実を裏付けるべき資料は存在しない。
(三) 乙第一九、二〇号証も、本件堤防に対する権利の帰属または支配状況の認定に資するところがあるものとは解されない。
(四) 本件堤防と下川原堤防との位置関係から、本件堤防が被控訴人ら主張のような目的による霞堤であるとただちに推認することはできない。
(五) 被控訴人らは、一筆の土地が官有地等により分断されている場合があるとしてその例を挙げるが、本件土地がそのような場合にあたるとみるべき資料は存在しない(的谷崎川が旧三八番の分筆当時同番地内を流れていたことは後記のとおりであるが、成立に争いのない甲第一九号証の一ないし五、当審証人平山宗吉の証言によれば、より旧くは的谷崎川は本件土地の西方をそのまま南下して安曇川本流にほぼ直角に注いでいたことが認められるから、的谷崎川がのちに東流するようになつた部分およびその付近の土地を官有地と認めることはできない)。
(六) 成立に争いのない乙第一六号証によれば、控訴人先代がほか一一名とともに明治三二年六月三日滋賀県から宇外川原地内の堤塘につき樹竹栽培を目的とする使用許可を受けている事実が認められるが、その場所が右下川原堤防等と本件堤防とのいずれであるかを判別できないので、これを以て本件堤防が官営堤防であることの証左とするに足りない。
五、他方、控訴人側がその主張の根拠として挙げるところを順次検討すると、次のとおり考えられる。
1. 周辺の土地との位置関係等からすれば、本件堤防は、控訴人所有地内に存在するものとみるほかはない。すなわち、
(一) 本件堤防のうちの東端の部分は、次の点から、控訴人先々代が買い受けた新三八番の土地内に存在するものと認めるべきである。
(1) 右に引用した原判決理由に認定のとおり、控訴人先々代は一筆の土地であつた旧三八番の土地の北半を買い受けて新三八番として分筆し、その南半は三八番の一として庄堺組の所有に残されていたのであり、新三八番はその大部分が本件堤防の北東側に、三八番の一は本件堤防の南側にそれぞれ存在するものと認められるのであるから、本件堤防の東部は旧三八番の内部に存在するものとみなければならない。
(2) 成立に争いのない甲第二二号証の一、二およびこれに対比して真正に成立したものと認めるべき同号証の三は、明治九年作成の下古賀村総全図であつて、本件土地付近の土地の現在の地番を付した基礎たる図面であると窺われるが、その細部の正確性は保しがたいとしても、その記載の各地番の土地のおおよその位置関係および形状をほぼ誤りなく表示しているものとみるべきであつて、これを排斥すべき理由は見出しがたい。そして、これを、原審および当審における検証の結果、前掲井上英保の証言ならびに控訴本人尋問の結果に対比してみれば、本件堤防の東部の過半以上は、右図面で三八番(旧三八番)として表示された土地内に存在するものとみるべきである(もつとも、新三八番と三八番の一との地積の比率からいつて、本件堤防は、右証人が甲第二四号証の二においてその位置として示したワラナオワの線内の土地よりは、その東端において、より南側に位置するものとみるべきである)。
(3) 前掲熊谷兵治郎、井上英保の各証言および控訴本人尋問の結果によれば、前記分筆の当時、本件土地の西方を南流して来た的谷崎川は、東方へ向きを変えて旧三八番地内を流れた後に安曇川本流に合流していたことが認められ、現在、的谷崎川が本件堤防の南側に沿つて東流していることは前掲検証の結果に明らかであるが、その間、その流れが大きく位置を変えた形跡はない。
(4) 以上のとおり、本件堤防の東部は旧三八番の土地内にあるものとみられるが、分筆後の三八番の一の土地内に分筆以前から堤防が存在しまたはその後に築堤されたという資料はなく、かえつて、後記認定のように控訴人先々代らが北側の自己所有の田を水害から護ることを目的として本件堤防を築造したものとすれば、特段の事情の認められないかぎり、同人らは自己所有地内にこれを築造したものと推認すべきであるから、本件堤防の東部は新三八番の土地のうちでその南側の部分にあるものとみるべきである。
(二) 当審における検証の結果(第一、二回)と、成立に争いのない甲第一九号証の一ないし四、弁論の全趣旨から真正に成立したものと認めるべき同号証の五、前掲甲第二二号証の一ないし三および証人井上英保の当審証言とに基づき、本件堤防の所在地と、その西方の字入谷川原と字小谷との字境(「小谷の川」)、字小谷と字下川原との字境(小谷の旧排水路)ならびにその中間の字小谷地内にある昭和一九年に造られたという水路の各位置とを対照してみると、本件堤防の西端は、分筆前の字的谷崎四八番の地内(ほぼ前掲甲第二四号証の二記載のオワの部分)にあるものと認めることができる。
(三) 右甲第二二号証の一ないし三によれば、字的谷崎四六番、四七番の各土地は、旧三八番の土地の北西側、四八番の土地の東側にあつて、順次相接していることが認められ、これに反する前掲乙第五号証の二、三の記載はとうてい採用しえない。また、前掲井上の証言、控訴本人尋問の結果および検証の結果によれば、前記三、(三)認定の位置にある字外川原八五九番の一〇の土地は、右甲第二四号証の二においては、オネツソオの線内にほぼ該当するものと認められる。したがつて、本件堤防のうち右(一)および(二)に認定した部分の中間の部分は、字的谷崎四六番および四七番の土地に該当するか、あるいは、前記(一)(2)末段記載の事由によりさらに南方に寄るとしても、少なくとも字外川原八五九番の一〇の土地内にあるものとみるべきである。
(四) さきに引用した原判決認定のとおり、新三八番が分筆されたのちの地番は入り乱れ、現地と公簿面とが合致しなくなつているのであり、控訴本人尋問の結果によれば四八番の分筆後の土地についても同様の事情が存するものと認められる(とくに、乙第五号証の二においては、四八番の四が殷徳基の所有地として表示され、同番の三については表示がないが、前記のとおり、公簿上は、同番の四は現に控訴人所有地であり、同番の三は吉沢源太郎所有地である)。他方、四七番の土地は殷徳基に譲渡されたこととなつているが、その所在が明らかでなく、字外川原八五九番の一〇が赤塚庄蔵に譲渡されたことも、前記認定のとおりである。しかし、これらすべての土地を通じて、すでに堤防敷地となつている部分をも含めて譲渡または自創法に基づく農地買収の対象としたものとは認められず、むしろ本件堤防の敷地部分は譲渡・買収の対象から除外されていたものと推認するのが相当である。したがつて、本件堤防の敷地はすべて現に控訴人の所有に属するものと認められる。
2.(一) 原審証人東村友治郎、同島田定次郎は、控訴人の先々代または先代(以下、控訴人先々代らという)が島田定次郎の父島田忠七等に工事を請け負わせて本件堤防を築造した旨証言し、当審証人平山宗吉も、同人自身が明治年間に本件堤防の築造および補修に稼働した旨供述しており、そのほか、原審証人桝谷清一の証言から真正に成立したものと認められる甲第三号証の一ないし五の各記載、原審証人熊谷兵治郎、同北条清太郎、同西村長治郎、当審証人熊谷忠三、原審および当審証人井上英保の各証言も多くの伝聞を含み、十分の根拠を持つものといえないが、明治二五年頃ないしそれ以後の明治年間において、控訴人先々代らが本件堤防を築造したとの点については信を措くに足るものがある。そして、少なくとも、控訴人先々代らが明治二五年頃堤防の築造または補強に着手していた事実があることは、原審および当審における控訴本人尋問の結果から真正に成立したものと認められる甲第一三号証の一ないし四、弁論の全趣旨から真正に成立したものと認められる甲第三二号証の一ないし三によつて裏付けられるところである。
(二) 右の頃控訴人先々代らが堤防工事を行なつた事実があるとすれば、前記認定のとおり、明治二五年頃取得し開墾に着手した新三八番等本件土地の北側の自己所有土地の保護を目的としたものと推認することができ、これが本件堤防に該当するものと解される。なお、この点につき、控訴人先々代らの築造した堤防が被控訴人ら主張の内堤防(原判決別紙図面のホヘトチリヌホの線内)であつたと認めるべき証拠はない。右位置に旧くは土提状のものが存在した事実は窺われるが、控訴人先々代らが新三八番の土地を買い受けその開墾に着手する頃に、ことさらそれより内側に堤防を築く理由は考えられず、被控訴人ら主張のように本件土地に官営堤防が存在していたとすれば、なおさら内堤防を築くことは無意味であつて、むしろ、原審および当審における検証および控訴本人尋問の各結果によれば、右位置の土堤状の部分は本件堤防の築造につれて次第に取りくずされて現状のような田地と化したものと認められる。
(三) 原審および当審(第一回)における検証の結果によれば、現状において、下川原堤防の東端は、本件堤防の西端のほぼ真南すなわち的谷崎川の南流している部分をそのまま延長した地点にあることが認められる。ところで、前掲東村、北条、熊谷兵治郎、西村の各証言ならびに原審および当審における控訴本人の供述は、本件堤防築造当時下川原堤防は現状より二〇〇米余上流までしか及んでいなかつたとして、それが本件堤防を築く一つの理由であるかの如く述べているが、前掲乙第二号証、乙第一八号証の三においては、下川原堤防は現状と同様あるいはむしろさらに東方(下流)にまで及んでいるように表示されているばかりでなく、甲第二二号証の一ないし三においても、当審における同図面の検証の結果によつてみれば、下川原堤防と推測される部分の表示が的谷崎川の延長線の東方にまで及んでいて、これらの記載は右各証言および供述に矛盾するごとくみえる。しかし、他方、前掲甲第三〇号証の二によれば、前掲乙第一号証の八において下川原堤防と推認される部分に官有提塘として表示されている字外川原八五九番の一二が同番の一〇から分筆されたのは、大正元年八月一五日のことであり、他の証拠を総合してみても、下川原堤防が現状のとおりとなつた時期は確定しえないものというほかはないし、仮りに同堤防が現在の位置に及んでいたとしても、地形上本件堤防を築造する必要が皆無となるものとは認められないから、右各証言および本人尋問の結果中のこの点についての誤りは、その全体の信用性を否定するに足りないものというべきである。
六、以上に掲げたとおりの当事者双方に有利な資料を比較して本件口頭弁論の全趣旨に基づいて考察すると、当裁判所は、第五項の認定を基礎として、控訴人先々代らが、昭和二五年頃、新三八番の土地を買い受け、その開墾に着手したのと平行して、右買受土地を含む安曇川左岸の字的谷崎地内に所有する田地を譲るため、その南側の自己所有地内の本件土地に堤防の築造を始め、その後一〇年余にわたつて補強を重ねて、ほぼ現状のとおりの本件堤防(ただし、昭和二八年以後に安曇川町ないし滋賀県知事において復旧補修した東端部分は現状と異なる)を完成し、以後も控訴人先代および控訴人においてその補修管理を続けていたものであつて、本件堤防およびその敷地の本件土地は控訴人の所有に属するものと認めるのが相当であると判断する。
七、そこで、以下控訴人の各請求の当否について検討する。
(一) 第一次請求中明渡請求について。
(1) 被控訴人滋賀県が法律上の河川管理者として本件堤防を占有しているものとは解されないことは前記一のとおりであり、そのほか同被控訴人の占有を肯認すべき資料はないから、同被控訴人に対する本件堤防・土地の明渡請求は失当である。
(2) 被控訴人国が本件堤防をその占有下においていることは明らかに争わないところである。しかし、前記のとおり、本件堤防は、当初控訴人先々代らにより、もつぱら同人ら所有の農地を安曇川の水流から保護するために築造されたものであるが、これが、現在においても、その北側の字的谷崎地内の第三者所有の多数の農地、さらにはその東方の新旭町地内の農地をも保護する役割を果たしていて、国による安曇川管理のため不可欠の施設となつていることが明らかであるから、これを差し当りこのまま存置することはその設置の趣旨に叶うものであり、前掲事実摘示欄記載の控訴人の請求の態様自体からみても、国による代替築造の措置のない段階においても、敢えてこれを自由に処分するため本件堤防の引渡を請求する趣旨ではないと解されるし、また、将来の引渡については新らしい事態の下における協議による解決が期待されるので、右引渡請求権の存在を現在確定する必要性があるとも認められない。よつて、以上諸般の理由に基づき本件土地および本件堤防の明渡を求める控訴人の請求は、失当として、これを棄却する。
(二) 第二次請求中確認請求について。
控訴人が被控訴人らに対し、本件土地・堤防の所有権の確認を求める利益を有することは明らかであり、この請求は理由がある。
(三) 竹の伐採による損害の賠償請求について。
控訴人が本件堤防上に竹を植栽していたことは認められるが、その数量に関する原審および当審における控訴本人の供述は漠然とした推測の域を出ないものであつて、ただちに採用しがたいばかりでなく、本件堤防の一部が洪水により流失したことは控訴人の自認するところであるから、被控訴人らの伐採した竹の数量および価額を確定することは不可能というほかはなく、この点の損害額は証明がないものというべきである。
(四) 本件堤防の利用・占有による不当利得返還および損害賠償の請求について。
(1) 前記のとおり、河川管理上、本件堤防の存置またはこれに代わるべき施設の設置が必要な状況にあることが認められるとともに、河川管理者として堤防を築造する義務を有することの明らかな被控訴人国およびその費用を負担すべき被控訴人滋賀県が、他人の設置した堤防を権原なく利用することにより、自ら堤防築造の費用の支出を免れている場合には、法律上の原因なく利得をしかつ所有者に損失を与えるものということができる。その利得および損失の額は、たとえば本件堤防の利用価値、あるいはこれを他に賃貸することによつて得られる賃料相当額により算定することも考えられるが、必ずしもそのような方法のみによらなければならないものではなく、控訴人主張のように、新たに築堤する場合に要すべき費用に対する毎年一定の利回りをもつてすることも、算定方法の一つとして採用することができるものというべきである。
(2) 原審証人桝谷清一の証言および原審における控訴本人尋問の結果によれば、本件紛争に関し、控訴人と滋賀県との間に調停が行なわれていた昭和三五年頃、桝谷清一が控訴人のため新旭町の土木課長川島幸三郎に交渉した際、同課長は、本件堤防決壊当時(弁論の全趣旨から昭和三四年頃のことと推定される)において、下川原堤防の延長等により本件堤防に相当する堤防を新たに築造するには予算二、五〇〇万円を要するため、本件堤防の修復にとどめた旨述べた事実が認められる。右金額の見積りについて計算の根拠は明らかにされていないが、前掲甲第一三号証の一ないし四および甲第三二号証の一からもその一端を窺い知ることができるように、本件堤防の広さに相当する堤防を築造する場合には、測量、埋立等をも含めて、相当の日数、人員および資材を要すること、および本件において被控訴人らの争いは専ら堤防の所有権の問題に集中し、右の計算関係については、何らの反論もなされないこと、などを考えあわせると、昭和三四、五年当時における築堤費用として、前記見積額は過大なものとは認められないとともに、その後の物価の上昇等を考え合わせれば、現在または今後に築堤する場合に要する費用が右金額を著しく超えるであろうことは、その細目につき一々数字的根拠を明らかにするまでもなく、容易に推認しうるところである。してみれば、被控訴人らが本件堤防を利用することによる利得は一年につき右築堤費用の六パーセントにあたる一五〇万円であるとの控訴人の主張も、少なくとも昭和三四年頃から現在までの期間における一ケ年平均の額および今後毎年の利得の額として算定した場合、これを過大視する根拠を見出すことはできないのであり、その反面控訴人は少なくともこれと同額の損失を被つていると見なければならない。以上の判断を左右するに足りる反証は何ら提出されていない。
(3) 被控訴人らによる本件堤防の占有ないし利用が遅くとも昭和三四年一一月一日以前に始まつたことは弁論の全趣旨に明らかであるから、同日以後右の利得および損失が生じているものである。そして、その状態は、代替堤防の築造等により控訴人に本件土地を引き渡すことが可能になるか、あるいは本件堤防の収用、買収等による権利変動が生ずるまで継続するものと推認することができるから、被控訴人らが、各自控訴人に対し、右の期間を通じて一年につき一五〇万円の割合の金銭を不当利得の返還として支払うことを求める将来の給付の請求もこれを却ける理由に乏しいというべきである(現行河川法施行後における河川管理費用についての被控訴人らの間の負担割合如何は、控訴人に対する右支払義務を左右するものではないと解される)。
八、以上の次第で、所有権確認請求および前項(四)の金員支払請求を認容し、第一次請求およびその余の第二次請求を棄却すべきであるから、原判決をその趣旨に変更し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九二条、九三条を適用し、仮執行の宣言は金銭支払部分のうち当審口頭弁論終結時までに支払義務の生じた部分にかぎりこれを付することとし、被控訴人らの申立にかかる仮執行免脱の宣言は、本件土地所有権の帰属が争われて本件の審理に長年月を要した経過、控訴人の損失を速やかに補填させる必要があること、控訴人が即時に本件土地の明渡を受けられないこと、などの事情を考慮して、その一部にかぎりこれを付することを相当と認める。
よつて、主文のとおり判決する。